2025年に開催される大阪・関西万博。賛否の声が渦巻き、資材の高騰や人手不足で準備が間に合うのかという懸念もあります。 さすがに1970年の大阪万博は知らない世代なのですが、1985年の科学万博つくば’85と2005年の愛・地球博を見て、20年の時代の流れを感じる一方で、大きな仮設建造物のもとで環境問題が語られているなんとも説明しにくい構図に、「もはや万国博覧会というものが限界に達しているのではないか」と感じるところもありました。
その20年後がどうなるか。その一つのヒントになりそうな記事を目にました。
人類の歴史は「所有からの解放」へ。大阪・関西万博オランダパビリオンの建築家が説く、サーキュラーエコノミーへの道
https://ampmedia.jp/2024/04/02/thomas-rau/
機械設備の評価をやっていると、物の寿命というのを考えさせられます。 作業と割り切って耐用年数表に載っている数字をポンと充てはめれば済む話なんですが、なぜそうなるのか?を意識するとやはりもう少し深い考察をすることは必要となります。 機械設備評価の研修を受けているときに、すでに評価の経験を持っている方から「40年、50年経過した機械設備と出くわすことはザラですよ」と言われたんですが、実際、評価の主体になると、本当に私が生まれる前に作られた機械が現役で働いているのです。新しい機械でも、いつかは陳腐化、老朽化して使えなくなる時が来ます。ですから、この機械はあとどのくらい働いて、その後どのように処分されるのか。そんなことも考える必要があります。「古くて単純な機械でも開発途上国にもっていけばまだ買い手はつくよ」といった話も有ったりするのですが、開発途上国にもっていったとしても恐らくいつかは使えなくなって、どこかでスクラップになるか、放置されて朽ち果てていくか、そんな運命を辿っていくはずです。
そして使えなくなった機械は、解体されて部品として取引されるものもあれば、マテリアルとして使い道があるものは再資源化、どうしても使えないものは廃棄物として処分されることになります。 記事によれば現状では使い終わったものはすべてゴミになるかのようなニュアンスで書かれていますが、必ずしもそうではなく、特に金属を中心に循環サイクルはある程度形成されています。但し、その価格はたいへん安いというのが実情です。おそらくすべて再資源(マテリアル)としたときの価格は、元々の原価の1%に届かない水準ではないかと思います。
現実はそうなので「残材にはほとんど価値がない」「価値があっても解体や運搬のための費用で消えてしまう」というのが現在の”常識”になっています。 最近は銅不足によってさまざまな影響が出ているように、近年、特に金属資源を中心に資源量の限界を感じることが多くなってきました。資源が有限となると再利用も重要度を増してきますし、場合によっては資源がなくなればマネーを獲得できなくなる資源国が所有ではない資源供給の仕組みを仕掛けてくる可能性もあるかもしれません。 物質的には目新しいものが出にくい環境ですが、多額の費用をかける以上は何らかのレガシーを期待したいところです。
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